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大阪地方裁判所 昭和42年(わ)4657号 判決 1979年4月12日

被告人 杉本佳紀

昭一五・五・三〇生 会社員

佐藤新一郎

昭二〇・五・二七生 自動車運転手

主文

被告人杉本佳紀は無罪。

被告人佐藤新一郎を禁錮二年六月に処する。

但し、この裁判が確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用中、証人山本静清、同澤田輝幸、同白川周治、同木口敬久、同大隣末弘、同木尾光蔵、同金谷利忠、同安井道仁、同森幸由及び同中原輝史に支給した分は被告人佐藤新一郎の負担とする。

理由

第一、被告人佐藤の罪となるべき事実

被告人佐藤新一郎は、大阪府泉大津市池浦三五八の一所在森吉通運株式会社泉大津営業所に勤務し、自動車運転の業務に従事していたものであるが、同会社所属の大型貨物自動車(最大積載量五トン、車長七・一メートル、車幅二・三メートル、(以下本件自動車という))の助手席に助手白川周治を同乗させて、これを運転し、昭和四二年四月一日午後七時二〇分すぎころ、同府泉南郡泉南町男里九八二の一番地(現在同府泉南市)所在南海電気鉄道株式会社(以下南海電鉄という)の南海本線樽井第九号踏切にさしかかりその手前約一・八メートルの地点で一旦停止した後、変速機を第二速に入れた状態で同踏切を南から北へ発進通過しようとしたが、同踏切は線路(上り・下り両線)に直角に設置され、長さ約八・二メートル幅員約二・一ないし二・三メートルの狭隘さであり、その踏切区間の道路状況は、一部古枕木で構成されているほかは両路肩部が古枕木で囲まれた非舗装の凹凸路面で、同踏切部分がこれと接続する両側の道路面より高いため、同踏切の手前はいずれも上り勾配となつている場所であり、かつ自車の変速機も最も力の強い第一速ギアを用いていなかつたのであるから、このような場合大型貨物自動車運転者としては、いわゆるエンジンストツプ(以下エンストという)の状態を惹起しないようにアクセルペダル・クラツチペダルなどの操作を的確に行なうように努め、もつて自車を同踏切内に停滞させることにより接近する電車との衝突による電車転覆事故発生の危険を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、道路幅が狭かつたところから、ハンドル操作に気を奪われてアクセルペダル・クラツチペダルを的確に操作しなかつた過失により、自車をエンストさせ同踏切の下り線路をまたぐ状態で停止するに至らしめ、間もなく、同踏切に進行してきた杉本佳紀運転にかかる難波発和歌山市駅行下り五両編成急行電車一両目前面に自車右側部を激突させて同電車を同所から約九七メートル暴走脱線させ、男里川鉄橋から男里川川原に同電車先頭から三両目までを顛覆させ、よつて別表番号1ないし5記載のとおり同電車の乗客である隅田文子ら五名を同各番号各掲記の傷害に基づき死亡させ、同表番号6ないし228記載のとおり、同乗客春日美智子ら二二三名に対し同各番号各掲記の各傷害を負わせたものである。

第二、証拠の標目(略)

第三、被告人佐藤に関する検察官及び弁護人の主張について

検察官は、被告人佐藤には当裁判所が右判示のとおり認定した過失のほかに本件踏切は余りにも狭隘であるからまず本件踏切通過を断念すべきであること、あえて本件踏切を通過しようとするのであれば、変速機を最も力の強い第一速に入れて発進すべきであること、踏切上でエンジンがかからなくなつた際、直ちに衣服等を燃やすなどして踏切内に危険が発生していることを進行してくる電車に知らせる等の業務上の注意義務があり、同被告人にはこれらの注意義務を怠つた過失もあると主張し、一方同被告人の弁護人は本件踏切は、狭いとはいえ通過は容易であるとし、第二速からの発進も、必ずしも不当とは言い得ないとし、本件事故の真の原因は、本件踏切の整備不良と本件自動車の燃料ポンプの欠陥の二点に存すると主張する。

よつて右の諸点について判断する。

前掲各証拠並びに司法警察員作成の「被疑者佐藤新一郎の事故現場までの走行経路についての捜査復命」と題する書面によれば次の事実が認められる。

一、本件事故現場の概況

本件事故現場の概況は、東西に通ずる南海電鉄本線と南北に通ずる大阪府泉南郡泉南町道男里御幸線と交る

樽井九号踏切(衝突現場)並びにその西方約四〇メートルを南から北に流れ、大阪湾に注ぐ男里川に架設された鉄橋(本件電車転落現場)であつて、大阪側の樽井駅と和歌山側尾崎駅とのほぼ中間に位置する。

二、本件事故現場

南海電車路線の道床は堤状に盛土されており、その線路は、複線の狭軌道であつて、幅員は一・一四メートル上下線間の距離は、四・八メートルである。

男里御幸線道路は、踏切取付付近で幅員が狭くなり、有効幅員は、二・九メートルである。路面は本件踏切道を除いて、アスフアルト簡易舗装であつて、凹凸はなく、斉整である。本件踏切道を中心として南海線は東方(上り線方向)に向つて一〇〇分の一の下り勾配を形成し、南方に緩い弓状形カーブを描き、西方(下り線方向)は小男里川鉄橋を経て、男里川鉄橋西詰に至る間の線路は直線平担である。

小男里川鉄橋の長さは、七・二五メートル、男里川右岸堤防上における線路の長さは、二三メートル、男里川鉄橋の長さは約九五メートルである。同鉄橋は上下線に分れて架設され、橋脚は六本あり川原から鉄橋までの高さは概ね四・六メートルである。

また本件踏切は、第三種踏切であつて踏切南西角と北東角(踏切進入車両にとつていずれも左方にあたる)に警報機が一個宛設置されている。

本件踏切道は鉄道線路に対して直角に取付けられ、その長さは八・二メートル、幅員は、古枕木埋設部で二・一メートル、砂利道部は二・三メートルである。

踏切構造は、上り線、下り線の外側軌条の外側に着して古枕木二本を埋設し、線路内は軌条側に護輪軌条を取付け、中間は古枕木四本を埋設し、さらに各内側軌条外側に古枕木各二本が埋設されている。上り線路と下り線路の中間部分は、砂利敷であつて両側いわゆる路肩は、角材木を枕木で固定し、土留がなされている。

踏切道路面は、全面的に凹凸が認められ、砂利敷部分においては路面両側に浅い溝状の窪みがあつて特に凹凸度が大である(軌道表面からの凹部最深部の深さは、下り線側東側一二・五センチメートル、西側一五・五センチメートル、上り線東側一二センチメートル、西側一三・〇センチメートル)。

三、本件自動車

本件自動車は、ニツサン六八〇型、六二年式普通型で、乗車定員二人、車両重量三・九四トン、最大積載量五トン、長さ七・一メートル、幅二・三メートル、前輪左右の外側から外側まで一・七八メートル、各中心から中心まで一・六三メートル、後輪外側車輪の左右外側から外側まで二・一四メートル、同内側車輪の左右の外側から外側まで一・五九メートルである。

四、被告人佐藤の経歴及び本件事故に至るまでの運転経過

被告人佐藤は、昭和二〇年五月二七日、新潟県北蒲原郡京ヶ瀬村で生まれ、昭和三六年三月、京ヶ瀬中学を卒業、昭和三九年夏、愛知県一宮職業安定所の紹介で、同市馬引町所在の手織物関係の運搬を主たる業務とする森吉通運株式会社に臨時雇の自動車運転助手として就職し、大阪府泉大津市池浦三五八の一の同社泉大津営業所勤務となり、昭和四〇年二月助手として本採用され、同年六月大阪府公安委員会から普通自動車免許、昭和四一年四月大型一種免許を受け、同営業所自動車運転手となつた。

同被告人は、本件事故当日は、午後五時三〇分ころ、その日の作業を終り、右営業所にいるとき、同所に運転助手として勤めている前記白川周治(当時一九歳)から、同人の知人の引越荷物の運搬を依頼されてこれを引受け、本件自動車(空車)助手席に右白川を同乗させ、同人の道案内によつて、右引越荷物のある大阪府泉南郡東鳥取町中村七二二番地所在の和泉撚糸株式会社(以下和泉撚糸という)を訪れて荷物を積み込む目的で、同日午後六時三〇分ころ、右森吉通運株式会社泉大津営業所を出発し、国道二六号線に出て、右和泉撚糸を探したがその所在地をつかめないまま、紆余曲折の末同日午後七時二〇分すぎころ時速約二〇キロメートルで南から北に向け、さらに和泉撚糸を探して進行中、本件踏切南側にさしかかり、その手前約一・八メートルの地点で一時停止し、左右の安全を確認後、北に向い同踏切を通過しようとして、変速機を第二速に入れて発進し、時速約五キロメートルで同踏切内に進入し、自車前輪が、下り和歌山行軌道上を越え、自車前部先端部分が、同軌道北側部分から約二・七メートルの位置に達したとき、エンジンが止まり、本件自動車はその場に停止した。

同被告人は、まず自車を踏切外に出すべくセルモーターを二度まわしたが、エンジンが始動せず、二度目にエンジンスイツチを入れている間に同踏切に設置された警報機が鳴り出し、それと同時くらいに右白川が難波側から接近する電車に危険の発生を知らせるべく車外に飛び出し、本件踏切から東方に向つて走り出した。

同被告人は、右白川に押させて自車を動かそうと同人に声をかけて呼んだが、同人は、そのまま走り続けるので、同被告人としては、何とか自車を踏切外に出すことを考え、次には変速機を後退に入れてセルモーターを作動させたが、僅か四〇センチメートルくらい動いたのみでそれ以上動かすことができなかつた。

このとき、同被告人が、東方をみると電車がすでに七、八〇メートルにまで接近しているのに気付き、危険を感じて運転席から車外に飛び出し、約四・五メートル東に離れた上下線軌道の中間付近まで退避した直後に本件踏切上で本件自動車と前記和歌山市駅行急行電車とが衝突した。

五、本件衝突後の状況

本件電車は、その一両目前面を、本件踏切下り線路上に停止中の本件自動車右側部に激突し、同自動車を引きづつたまま右踏切西側部分から、さらに約九七メートル進んだ男里川鉄橋上(男里川鉄橋右岸橋床から約六〇メートル鉄橋上に進入した地点)において、一両目が進行方向の左側に半横転し、仰向けになつて高さ約四・六メートルの川原に転落、その前部台車は電車車台の取付部から離脱し、一両目電車前部に乗りかかるような格好で落下し、二両目車両は先頭車両よりさらに五・三メートル先方の地点の川原に前底部を突込み、その後部は仰向けになつた先頭車と鉄橋の橋脚に支えられ、宙吊りの格好になつた前傾姿勢でさらに左方へ約四五度傾いて停まり、三両目は、前後部の車両軸四輪とも進行方向の左側に脱線して約四五度左傾し、二両目電車にもたれかかるような格好で停止、四両目は、前部車軸四輪が左に脱線し、車体は僅かに左斜前方に傾く程度にとどまり、五両目は、前後部車軸全車輪ともに軌道上に残り、特に異常がなかつた。

一方、本件自動車は、荷台、運転台扉及び前後車輪が大破し、自動車の機関部と車台は、一両目電車が転落した地点より前方(西方)地点に落下し、その機関部は焼けただれ、その車台は数ヶ所で折れ曲り、自動車の原形を止めないほどに損傷した。その荷台部分は男里川右(東)岸南側に転落した。

右衝突による右電車の脱線転覆の衝撃により、判示認定のとおり別表番号1ないし5各掲記の隅田文子ら五名が死亡し、同番号6ないし228各掲記の春日美智子ら二二三名が負傷するに至つたのである。

六、被告人佐藤の過失について

(一)  被告人佐藤の本件踏切通過行為について

検察官は、まず「大型貨物自動車を運転して、本件踏切道のように狭い道路を通過するのは不適当であるから、被告人佐藤としては踏切通過を断念すべき業務上の注意義務がある。」と主張する。

なるほど、本件踏切は、先に認定したとおり最も狭い部分が二・一メートル、最も広い部分が二・三メートルと狭隘ではあるが、本件自動車の左右前輪の各中心から中心まで一・六三メートル左右後輪の内側車輪の外側から外側まで一・五九メートルの幅であるから、踏切道の最狭部においても約五〇センチメートルの余裕がありハンドル及びアクセルペダル・クラツチペダルなどを的確に操作運転していれば、安全に通過できる状況にあつたと認められ、実際に被告人は本件踏切道外に落輪させてもいないのであつて、本件自動車を運転して本件踏切を通過すること自体については、これを断念しなければならないような業務上の注意義務までは存しないものといわなければならない。

(二)  被告人佐藤の発進及び本件踏切道進行時の運転操作上の過失の有無

検察官は、「被告人佐藤は変速機を第一速に入れて本件踏切を通過すべきであつた。」と主張するので検討する。

被告人佐藤は、本件踏切の約一・八メートル手前において一旦停止し、その後本件踏切道を通過しようとしたのであるが、同所は本件踏切道に向つて上り勾配をもつ坂道であつて、前記認定のとおり、本件踏切道はかなり狭隘であるうえ、凹凸多く同踏切通過中は当然低速走行が要求されるから、変速機操作としては最も力の強い第一速に入れて発進・進行する方がより適切であつたとは言い得よう。しかしながら、第二〇回公判調書中証人金谷利忠、第二三回公判調書中証人安井道仁の各供述部分及び社団法人大阪自動車学校協会作成の捜査関係事項照会に対する回答書によれば、普通自動車の場合は一旦停止後発進するときは必ず変速機は第一速(ロー)に入れるべきであるが、大型自動車の場合であれば、必ずしも第一速に入れる必要はなく、現場の状況に応じ、適宜第一速又は第二速で発進してもよく、荷物を積まない空車状態であれば、第二速発進がむしろ運転者の常識となつており、坂道での発進であつても、特に技術が劣る場合でなければ第二速発進で十分であること、凹凸のある場所では第一速発進すべきであるか第二速発進すべきであるかの点よりも、むしろアクセルペダル・クラッチペダルの使い方に問題があり、右各ペダルを的確に操作できさえすれば、変速機の入れ方が、右のいずれであるかの点はさほど重要でないことなどが認められる。

そうすると、被告人佐藤が本件踏切の発進に際し、変速機を第二速に入れたこと自体が直ちに業務上の注意義務違反であるとまではいえないので、当裁判所は検察官の右の点についての主張は採用しない。

ところで大型貨物自動車運転者が変速機を第二速に入れたうえで、本件のような狭隘で凹凸の多い踏切道を通過しようとする場合には、ハンドルを厳格に握持するとともに、特にアクセルペダル・クラツチペダルなどの操作を的確に行ない踏切上に自動車を停止滞留させることなく踏切を円滑に通過し、進行してくる電車との衝突等の事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務が存するものと認められるところ、被告人佐藤は脱輪しないようにハンドル操作に気を奪われて、凹凸のはげしい本件踏切道の状況に応じた的確なアクセルペダル・クラツチペダルの操作をしなかつたため本件自動車の最前部が本件踏切の下り線路北側軌上を約二・七メートル越え、本件自動車のほぼ中心部が、下り線路に達したとき、エンスト状態を惹起し、停車させてしまつたものと認められる。

この点に関し、同被告人は検察官に対する昭和四二年四月一一日付供述調書第二項では、「進行中はアクセルを絶えず必要程度に踏み込んで進むべきであり、これはローでもセコンドでも同様で車を進行させるためには、絶対必要なことでありますが、私は、道路幅が狭いことに気をとられて、アクセルを踏んでいる足の方に対する注意がおろそかになり、そのため車の動揺によつて足が浮いたものと思います。これがエンストの原因だと思つております。」と供述し、さらに検察官に対する同月一五日付供述調書第四項では、「発進後の運転操作は、アクセルとクラツチだけであり、私はアクセルの踏み方が足りなくてエンストを起したのではないかと思つておりますが、或いは、クラツチの踏み方にも誤りがあつたかも知れず、いずれにせよこのいずれかの操作のミスがあり、そのためにエンストを起したに違いないと思います。」と述べ、同被告人の司法警察員に対する同月四日付、同月八日付及び同月一〇日付各供述調書にも同旨の供述記載がある。しかしながら、同被告人は、当公判廷においては、「(アクセルを)どの位踏み込んだかとそう言われても、仮にセンチに直せば三センチとか四センチとか、そこまでははつきり言えませんし、まああの道は、道の状態が悪かつたんで強めに踏んだのは間違いないと思います。」と述べているのであるが、当裁判所は、同被告人の当公判廷における右供述は、本件事故から一一年余の長年月を経過した後の供述であること、後に検討するように、他にエンジンストツプの原因が見当らないことを考えると、にわかに措信し難く、前記捜査機関に対する各供述を信用せざるを得ないものである。

エンスト後エンジン始動については同被告人はセルモーターを廻してエンジン始動を試み、それができなかつたので次に変速機を後退に入れ、セルモーターを作動させて後退しようとし、それぞれ相当の努力をなしたもので、結局エンジン始動には成功せず、また後退しようとした際にも、僅か約四〇センチメートル移動したにすぎなかつたものの、これが同被告人の操作の不適切に基づくものと認め得る資料は見当らない。

よつて、右の点に関する検察官の主張も採用しない。

(三)  本件踏切上でのエンスト後の処置に関する過失の有無について

検察官は、「万一、踏切上で自車の運転ができなくなつたときは、直ちに着衣等を燃やす等して踏切上に危険が発生していることを進行してくる電車に早期に知らせる措置を講じて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、被告人佐藤は、停止後間もなく踏切に設置してある警報機の警報が鳴り始めたことにより、本件電車の接近を知つたのに自車のエンジン始動のみに注意を奪われ、前記白川が右電車の接近してくる方向に走ろうとしたのを呼び止める等していたずらに時間を空費して踏切上に危険が発生していることを右電車に知らせるための適切な措置をとらなかつた過失がある。」と主張する。

そこで、右の点につき検討するに、本件自動車が本件踏切上でエンストして停止した後、同被告人がエンジン再始動のためにエンジンスイツチを二回廻したが、セルモーターは作動したものの、エンジンは始動しなかつたものであり(この点において同被告人の過失が在するとはいえないことは前記のとおりである)、この二回目にセルモーターを廻したとき警報機が鳴り出し、これと同時くらいに助手席の白川周治が外に飛び出し、約一〇メートル大阪側に走るのを見て、同被告人は電車が上下線のいずれから来るとは分らなかつたものの自車をなんとか動かそうとして、右白川を呼び返したが、右白川は戻らずに走りつづけるので、同被告人は次に後退することを考え変速機を後退に入れ、セルモーターをかけたが、自車は約四〇センチメートル後退したのみで止まり(この点においても被告人の過失責任を問い得ないことは前記のとおり)、その際右の方をみたとき難波側から電車が迫つてくるのが分り、衝突の危険を感じて運転席のドアを開けて飛び出し、その直後ころ、本件自動車と本件電車とが衝突したものである。果して、この間の一連の被告人の行動に責むべき点があるであろうか。

およそ、自動車運転者が踏切上で自動車をエンストさせ、その直後電車の接近を知つた場合エンジン再始動させるなどして、まず自動車を踏切外に移動させることは当面の急務であつて、被告人佐藤の前記行動を何ら非難することはできない。したがつて、この場合同被告人自ら本件自動車から降りて踏切上で自動車がエンストしていることを電車側に知らせるため、下り線路上を難波方向に走ることを要求することはできないし、仮りに同被告人がそのような行動に出たからといつて本件事故が防げたという証拠もない。現に右白川が警報機が鳴り出した直後本件自動車から降りて電車側に知らせるべく難波方向に走つたのであるが役立たなかつたのである。検察官は着衣等にマツチで火を付けて燃焼すればよいと主張するが同被告人の着衣や右白川の着衣がマツチ等で容易に燃焼するものであることを認めるに足る証拠もなくまた他に適当な手段があつたと認め得る資料もない。

その他、同被告人が本件踏切上でエンスト後本件電車が衝突するまでの間に、危険の発生を本件電車に知らせる措置をとらなかつたことについて何らかの不注意があつたとは認め得ない。

よつて、右の点に関する検察官の主張は採用しない。

(四)  被告人佐藤の弁護人の主張について、

被告人佐藤の弁護人は、「本件自動車の燃料ポンプにはインレツト・バルブ(吸入弁)とアウトレツト・バルブ(吐出弁)のスプリングコイルが摩耗、折損、坐屈し、本来の機能を果さなくなるという構造上の欠陥を有し、右燃料ポンプの欠陥と本件踏切の幅員、路面の凹凸状況、位置、取付道路との勾配等荒廃するまま放置された本件踏切の整備不良とが本件事故の真の原因であり、被告人には何らの過失がない。」と主張するので検討する。

大阪府警察科学捜査研究所長作成の昭和四三年七月一九日付「鑑定結果の回答について」と題する書面、今通著「自動車整備入門―2―」抄本及び証人中原輝史の当公判廷における供述によれば、次の事実が認められる。

本件自動車の燃料ポンプは、ダイヤフラムを使用した機械式フエールポンプであり、吸入弁は、燃料吸入の際は、ダイヤフラムが下方にたわむ作用でポンプ室に負圧が生じ、バルブスプリングを押し縮めて開き、燃料をポンプ室内に流入させ(このとき吐出弁は閉じる)、さらに燃料をキヤブレータへ送る際は、ダイヤフラムの押し上げ作用でポンプ室内の燃料に圧力が加えられて吐出弁を押し開く(このとき吸入弁は逆にバルブシートに押しつけられて油路を閉じ、燃料が逆流するのを防止する)機構となつている。

本件自動車の場合、シリンダー、ピストン等エンジン本体に異常はなかつたが、燃料ポンプの吸入弁のコイルスプリングの一部が摩耗・折損し、吸入弁内に残つているのは四巻半程度で(正常は八巻)、一片はダイヤフラム上に、他の三片は燃料圧送の流れにともなつて吐出弁をくぐりぬけた室内に存在し、その残存するコイルスプリングの巻数は全部で七巻と約一九三度分であり、約一六七度分(約一センチメートル)がフエールポンプ内には存在しないという異常状態となつていた。そして、右コイルスプリングの摩耗・折損は長期間のコイル相互の接触により摩耗し、コイル自体が微粉となり、また短く切れてガソリンと共に圧送されるという過程で徐々に進行したものと認められる。

ところで、第四〇回公判調書中証人花房耐夫(被告人佐藤の当時の勤務先森吉通運株式会社車両課長)の供述部分によれば、「(『燃料ポンプのスプリング等に異常があつた場合エンジンストツプに何か影響がありますか』との弁護人の問に対し)はい、これは当然燃料がエンジンの方へ適当量流れないということでエンジンが不調になるとかかりにくいということも当然ですが、最終的には燃料切れの状態になつてエンジンも完全にストツプしてしまうと思います。」との記載があり、また前記証人中原輝史は、「(『エンジン始動後、停止発進を繰り返して走行するわけですが、そういう走行については、摩耗折損は影響はないんですか』との検察官の問に対し)連続して走行する場合には、ほとんど影響はないと思います。これは常に燃料が消費されておりますので、ですからそのままの状態で走行させる時には、これは途中で急にエンジンが止つたとかそういうことはまず考えられないんです。ただ問題は交差点などで一度車を止めたとか非常に徐行運転になつてしまつたとか、そういう時にはもしもオーバーフローするような状態であれば、これはエンストを起す可能性は十分考えられるわけです。」と供述し、右両証言とも吸入弁のコイルスプリングが摩耗折損している場合には、エンストが起る可能性を指摘している。その点は前掲大阪府警察科学捜査研究所長作成の昭和四三年七月一九日付「鑑定結果の回答について」と題する書面の中でも指摘されているところである。

しかしながら、被告人佐藤の検察官に対する昭和四二年四月一〇日付供述調書第二、三項によれば、「三十号車(本件自動車の意)に私が運転手として乗つたのは、(昭和)四十二年二月からでありますが、ずつと以前私が大型免許をとる前に一ヶ月位助手として乗つたことがありました。」、「三十号車の専属になつてからは、休日以外は毎日乗つておりましたので、この車の性能やクセはよく判つております。これまで私が乗つたことのある車に比べますとエンジン始動の際に多少かかりにくい面がありました。他の車に比べてアクセルを少し多い目に踏まないとエンジンがかからず又、セルモーターをかけておく時間も多少と言つても一、二秒の違いですが、長くしないとかかりませんでした。」「(昭和四二年)三月二九日にブレーキの修理に出しましたが、完全に調整されていなかつたので、翌三十日にもう一度修理に出し、四月一日までの間に修理して貰いました。この時の修理では、エンジンの方はさわつていないと思います。」と、また検察官に対する昭和四二年四月一一日付供述調書によれば、「昭和四一年三月三〇日に京都から帰り昨日申しました様にブレーキ修理のため再び修理に出しましたが、その日の夕方日産の人が来て三十号車に乗つて帰る時その日産の人が私にエンジンの調子はどうですかと尋ねましたが、その時エンジン関係は何も異常はなかつたので、私はエンジンは別に悪いところはありませんと答えました。」と述べており、また第二五回公判調書中証人森幸由(当時本件自動車のブレーキ故障を修理した大阪日産泉大津営業所の従業員)の供述部分にも、(『四月一日の午後四時半頃に運転して森吉通運へ車を運転していつた。その時の車の調子ですが、どんな調子でしたか、エンジンなんか』との検察官の問に対し)よかつたですけど、エンジンもかかりやすかつたですけど……」・「(『事故の日にあなたが運転して森吉通運までいく際、エンジンをかけたり、ハンドル操作したり、その経験ではどこも悪いところはなかつたか』との検察官の質問に対し、重ねて)はい。そのように覚えてます。」との記載がある。

右の各供述を総合すると、本件自動車は、以前からエンジン始動が一、二秒遅れる癖はあつても、本件事故より前の日まで特にエンジン不調はなかつたものと認められる。

そしてまた、本件吸入弁のコイルスプリングの摩耗折損は長期間に亘つて徐々に進行したものと認められるところ、それによつて燃料ポンプが正常に作動しなかつたとすれば、同被告人は遅くとも、本件事故当日森吉通運泉大津営業所を出発して、本件事故現場に至るまでの間に、そのことに気付く筈であると思われるが、同被告人は、本件事故当日にもこれを感知していなかつたのである。

被告人佐藤の検察官に対する昭和四二年四月一〇日付供述調書の中で、同被告人は、「この出発のときエンジンのかかり具合は普通であり、直ぐかかりました。異常な処は、全然感じませんでした」と述べている。また森吉通運株式会社泉大津営業所から、本件現場までは時間にして約五五分間を要していることは先にみたとおりであり、本件現場に至る経路については、司法警察員作成の「被疑者佐藤新一郎の事故現場までの走行経路についての捜査復命」と題する書面によれば、同被告人は、本件事故現場付近までは、国道二六号線を経由しており、同二六号線と男里川が交わる地点付近まできて、その川沿にある和泉撚糸の所在が分らず、ゼネラル石油給油所、尾崎運送修理工場車庫、ニコニコ食堂、大東紡績株式会社、辻吉商店等付近でそれぞれ停止して行先である和泉撚糸の所在場所を尋ねたが分らなかつたものである。このように、同被告人はかなりの時間、公道上を走行し、その間交差点において信号待ちで停止することも相当回数あつたと推認され、本件現場付近においても、和泉撚糸への道を尋ねるためなどで、多数回にわたつて停止発進を繰り返し、その後に本件事故現場である本件踏切の手前に差しかかつたものであることが認められるのである。そしてその間、同被告人は本件自動車エンジン作動については何らの変調を感じないまま運転操作を行なつてきたものである。

そうすると、同被告人の検察官に対する昭和四二年四月一九日付供述調書中、「踏切の手前で一旦停車するまでにもまた一旦停車後発進してからも、エンジンの調子が普通であり、異状は感じませんでした。若し一旦停車までにエンジンの調子が少しでもおかしいと感じておれば車を停めており踏切を渡る様なことはしておりません。」と供述している部分は、十分措信し得るものと考えられる。

さて、先に述べたとおり、本件吸入弁のコイルスプリングのうち約一センチメートルの部分の所在が判明しないのであるが、この破片が、キヤブレーター内に燃料とともに圧送移動して、ニードルバルブにひつかかつた場合は、燃料がオーバーフローし、エンストし易くなり、またエンスト後のエンジン始動が困難となること、また右破片がニードルバルブを通過した場合には、これがキヤブレータ内燃料通過孔にひつかかると燃料の通過を妨げ、エンストし易くなり、またエンスト後のエンジン始動が困難となることも認められるが、右コイルスプリングの不足分は摩耗して微粉となつたほか小さな切片となつてガソリンと共に圧送されたものと推測されるところ、その部分はキヤブレーター内はもちろんその他どこにも見当らないのであり、これと前記認定のとおりのエンジンの調子を考え併せると前記エンストは、スプリングコイルの破片がニードルバルブ、又はキヤブレーター内燃料通過孔にひつかかつたために発生したものとは認め難い。

そうであれば、本件自動車には前記のとおり燃料ポンプの吸入弁のスプリングコイルの一部摩耗折損という欠陥はあつたが、これに基因してエンジンの作動が困難となるような不調状態には陥つていなかつたものと認められる。

したがつて、被告人佐藤の弁護人の右の点に関する主張は採用しないものである。

同弁護人は、本件踏切の整備状況が十分でなかつたとも主張しており、当裁判所が認定した本件踏切道の状況は前記第三の二のとおりであり、右認定によれば、南海電鉄側による右踏切道の整備状況が十分でなかつたことは明らかである。

ただ、それだからといつて、直ちに右踏切を車両運転して通過する際の運転者の注意義務が存在しなくなると考えるべきではなく、右踏切が悪路であるが故にどのような配慮をもつて本件自動車を運転し、本件踏切道を通過すべきかという検討がなされるべきであり、いわば、判示注意義務発生の前提状況となるものである。

よつて、本件踏切が整備不良であつたことを前提として、被告人の注意義務まで消滅するかのような同弁護人の右主張も採用しない。

七、被告人佐藤に関する法令の適用

被告人佐藤の判示所為中、隅田文子ら二二八名を死傷させた点は、各被害者ごとに、行為時においては、昭和四三年法律第六一号による改正前の刑法二一一条前段、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては、右改正後の刑法二一一条前段、同罰金等臨時措置法三条一項一号にそれぞれ該当するが、犯罪後の法律により、刑の変更があつた場合に該るから刑法六条、一〇条によりいずれも刑の軽い行為時法の刑によることとし、電車を顛覆させた点は、行為時においては、刑法一二九条一項、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては、刑法一二九条一項、右改正後の罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があつた場合に該るから、刑法六条、一〇条により刑の軽い行為時法の刑によることとし、前記隅田文子ら二二八名に死傷を負わせた点(各被害者ごとに)及び電車を顛覆させた点は、一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により刑及び犯情の最も重い安久信雄に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で処断すべきところ、その犯情について検討するに、被告人佐藤の判示認定の注意義務違反による本件事故の結果、一瞬にして多数の客を乗せた急行電車を脱線せしめ、川原に転落させ、死者五名、重軽傷者二二三名の多数に上る大惨事を惹起させるに至つたもので、各被害者らの蒙つた肉体的、精神的衝撃は大であり、社会的不安も与えており、その結果は極めて重大であるといわなければならないが、一方飜つて考えてみるに、同被告人の判示過失の態様は、それ自体、必ずしも悪質、重大とはいえないばかりでなく、また、危険防止の観点からするならば、すでに認定したとおり、本件踏切道は、凹凸の多い悪路であつて、本件自動車のエンストを誘発するような外部状況をなしていたものとみられること、また右踏切が狭隘であつたのに、落輪その他の危険防止の見地から大型自動車の通行を禁止する措置が講ぜられていなかつたこと、また本件事故からすでに約一二年の歳月が流れ、その間に各被害者側との間には円満に示談が成立していること、同被告人は本件事故後離婚したが、昭和四六年再婚し、現在は二児の父として堅実な生活を送つていることなど同被告人に有利な事情も総合考慮し、同被告人を禁錮二年六月に処することとし、右情状に照らし、刑法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については、証人山本静清、同澤田輝幸、同白川周治、同木口敬久、同大隣末弘、同木尾光蔵、同金谷利忠、同安井道仁、同森幸由及び同中原輝史に支給した分につき、刑事訴訟法一八一条一項本文により同被告人に負担させることとする。

第四、被告人杉本の無罪理由

一、被告人杉本に対する公訴事実の要旨

被告人杉本佳紀は、南海電鉄に電車運転士として南海本線の電車運転の業務に従事していたものであるが、昭和四二年四月一日午後七時二五分ころ、難波発和歌山市行五両編成急行電車(以下本件電車という)を時速約八〇キロメートルで運転し、大阪府泉南郡泉南町男里九八二の一番地所在(現在同府泉南市)樽井第九号踏切に東から西に向け接近していたが、当時同踏切の下り線路上に佐藤新一郎運転の大型貨物自動車がエンストのため停止している状況にあつたから、このような場合、該地点を日常往復して付近の地形等に通暁し、かつ多数の客を乗車させ高速走行している電車運転士としては、該線路の実情に応じ進路前方を注視すべきはもちろん、右踏切の安全確認を厳にして障害物である右自動車の早期発見に努め、万一これを発見したときは、直ちに非常制動の措置をとつて衝突による危害の発生を最小限度にとどめるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、前方注視をおろそかにしたまま漫然同速度で進行し、右自動車の発見が甚だしく遅れた過失により、右自動車の手前約一〇〇メートルの距離内に至つてようやくこれを発見し、非常制動の措置をとつたが及ばず、右自動車右側面に本件電車前部を激突させ、さらに本件電車を暴走脱線させ、その一両目二両目を男里川鉄橋上より同川々原に転落させ、さらに三両目をすでに転落した二両目の上に転落させよつて別表番号1ないし5記載のとおり本件電車乗客である隅田文子ら五名を同各番号掲記の傷害に基づき死亡させ、同表6ないし227記載のとおり同乗客春日美智子ら二二二名に対し、同各番号掲記の各傷害を負わせたものである。

二、被告人杉本の略歴及び本件事故に至るまでの本件電車運転経過

前記第三掲記の各証拠及び被告人杉本の司法警察員に対する供述調書一二通によれば次の事実が認められる。

被告人杉本は、昭和三一年四月一日南海電鉄に駅務係として入社し、昭和三七年五月車掌となり、昭和三八年一月大阪陸運局長から甲種電動車操縦者免許を受け、電車運転士に昇格し、難波列車区和歌山支区勤務となつて、大阪難波駅と和歌山市駅を結ぶ南海本線の往復運転に当つていたもので、本件事故当日である昭和四二年四月一日は、午後四時に出勤し、午後四時三五分和歌山市駅発難波行急行電車に乗務し、午後五時四五分難波到着、その後午後六時三〇分ころまで休憩し、午後六時四〇分同駅発和歌山市駅行の本件電車に乗務したものである。ところが、同被告人は、本件電車の運転開始前、和歌山へ帰る自己の妻喜寿美(当時三五歳)及び長男充史(当時三歳)と難波駅急行電車のホーム上で会い、同児にせがまれて、同児を本件電車一両目の運転装置のある運転室に乗車させ、妻は二両目に乗車した。

ところで本件電車は、五両編成であり、五車両とも昭和三五年一二月、帝国車両工業株式会社製造にかかり、各車両の長さは約二〇・七三メートル、幅は約二・七二メートル、高さは約四・一四メートル各自重は、三、四〇〇トン、五車両の総定員は、七三四名(うち座席三五二名、立席三八二名)となつていたものである。

被告人杉本は、乗客が満員状態であつた本件電車を右難波駅から定刻の午後六時四〇分に発車させ、途中新今宮、堺、羽衣、泉大津、岸和田、貝塚、泉佐野駅にそれぞれ停車し、泉佐野駅発車は定刻の午後七時二〇分ころであり、次の停車駅尾崎駅へは、午後七時二七分到着の予定であつた。右尾崎駅の手前の樽井駅を過ぎると、線路は左カーブになり、これを過ぎると続いて大きな右カーブとなつている。最初の左カーブ付近での制限速度は時速七〇キロメートルであるが、次の右カーブにおいては速度制限はなく、同被告人は、時速約八〇キロメートルで本件電車を運転進行していたものである。

被告人杉本は、同速度で本件踏切手前約一〇〇メートルに接近したとき、本件電車の前照灯の光により、右踏切上に本件自動車が停止しているのを発見し、危険を感じて直ちに非常制動の措置を講じ、その後、右斜前方約二、三〇メートルの上り線路上付近に、前記白川周治が立つているのを見て、右踏切上の本件自動車がエンスト状態であることを察知し、衝突が不可避であると直感、運転室床上にいた長男充史を左脇に抱きかかえて、右手で客室に通ずる戸を開け客室内に飛び込み、その直後、一両目電車前部が、本件踏切下り線路上でエンスト状態にあつた本件自動車右側部と丁字型に衝突したものである。

右衝突による結果は、前記第三の五で認定したとおりである。

三、被告人杉本の過失の有無について

被告人杉本が本件電車を運転していた時速約八〇キロメートルの速度の場合は、伊藤冨雄作成の鑑定書(以下伊藤鑑定という)によれば、進路前方に障害物を発見して本件電車が停止するまでの全制動距離は、二八九メートル(うち空走距離は三四メートル)と認められる。

そこで次に、同被告人は本件踏切の東方(難波方面)二八九メートルより手前の地点において、本件踏切上の本件自動車を発見し得るか否か(もし、右の二八九メートルの範囲内でしか発見できないとすれば、衝突は不可避となる)について検討する。

司法警察員作成の昭和四二年四月一〇日付実況見分調書によれば、本件電車の軌道は、本件事故現場踏切から東方五〇〇メートルのところから半径六〇四メートルのカーブをもつて湾曲しており、右踏切東方約一〇〇メートルのところからほぼ直線コースとなつて男里川鉄橋にいたつていること、また本件と同型の電車、自動車を使用した夜間見通し実験によれば、本件踏切の東方約二五〇メートルの地点で大型貨物自動車の前照灯は認められるが、車そのものの形は認識できず、二三〇メートル手前においては、線路右側の鉄柱のかげになり、自動車の前照灯はやや認め難く、自動車の運転席下後部に点灯している青の車幅灯が見えるのみで、自動車の車体そのものはやはり確認できず、約二〇〇メートル手前においては、本件踏切道が、自動車の前照灯により白く浮き上つて見え、自動車の前照灯そのものは、右側鉄柱がかげとなつて見えないが、車幅灯の青は確認でき、自動車そのものは、荷台の方がぼんやりと浮かび上つて見えるもののそれが自動車であるとは確認できない。約一九〇メートル手前においては、本件踏切上に貨物自動車があるのがぼんやりと認められ、約一五〇メートル手前においては、本件踏切上の見透しはよく、自動車の形もはつきりと視認でき、約八〇メートル手前においては、電車は本件踏切に対してほぼ一直線上にあり、電車の前照灯の照射範囲にあつてこれが自動車そのものを照らし出して形、色等も明確に認められること、一八五メートル手前では、踏切上の自動車がぼんやりと認められ、その車幅灯もはつきり見えるのであるが、右実験に立会つた被告人杉本自身も、その地点で、右自動車が見える(したがつて、その少し前方の本件踏切手前一八三・二メートルの地点で制動措置を講じた)旨指示説明していることが認められる。

しかし乍ら、右実験及び被告人杉本の指示説明結果は南海電鉄の新出広吉運転士をして、本件踏切手前約五〇〇メートルの位置から徐行しつつ進行し、本件踏切上に事故当時の位置に停止させておいた大型貨物自動車に対する見通し状況をあらかじめ定めた距離において順次電車を停止させ、運転席からこれを見分したものであつて、あらかじめ本件踏切上に自動車があることを知悉していたこと、時速約八〇キロの高速度で走行中の電車内から実験したものでもないことを考えると、果して本件事故当時、右の実験のとおり視認し得たかどうか相当疑問が残ると言わざるを得ない。

検察官は、本件踏切手前一九五メートルで本件自動車を発見し得ると主張する。(もつとも検察官は、当初は少くとも約一六〇メートル以上手前と主張していたものである)。その主張の根拠とするものは、第一八回公判調書中証人根田彰の供述部分(以下根田証言という)である。右根田証言によると、同証人は昭和一七年南海電鉄に入社し、昭和二三年から昭和三八年ころまで運転士をしていたもので、その間の昭和三六年三月二九日午後七時四五分ころ、本件踏切上で自動車との衝突事故を経験したものであるが、その際同証人は、四両編成の和歌山市駅行き急行電車を運転し、時速約七〇キロメートルもしくは約七五キロメートルで前照灯を点灯して進行中本件踏切手前約一九五メートル手前で同踏切上に車のヘツドライトがあるのに気付いた、しかしこれが線路の中にいるか外にいるかということはよく分らなかつた、ブレーキをかけたのはもう少し進行してからであるというものである。そうすると、同証人自身、本件踏切手前一九五メートルでは、本件踏切上にある自動車の前照灯の光を必ずしも危険なものとして認識していたとはいえないものであるし、その位置から何メートル進行して制動措置を講じたものかも判然としない。また、右事故当時の進行速度も本件被告人杉本の運転当時の速度である時速約八〇キロメートルより時速五ないし一〇キロメートルくらい下廻つていたものであるし、また右一九五メートル手前という地点も、再度電車に乗つてみて実験したうえでのものでなく、線路上でおよそこの付近と指示説明した地点であるというのである。

そうすると、右根田証言によつても、本件踏切の手前約一九五メートルの地点で、電車運転士が間違いなく踏切上の自動車を発見し、危険を感得することができると断定することは困難である。

大阪府警察科学捜査研究所技術吏員作成の昭和四二年七月二四日付「復命書」と題する書面によれば、昭和四二年七月二二日午前〇時から午前四時ころまで、南海電鉄運転士二名、警察官一名検察事務官一名の計四名が実験者となり、急行電車として通常走行している速度(平均時速約八三・二キロメートル)で本件事故地点付近を走行する電車の運転席において、<1>踏切上に何らかの障害物を認めた地点及び<2>踏切上にトラツクの存在を認めた地点の各点についてテープスイツチをおすという実験を行なつたがそれを電磁オシログラフに記録した結果を集計してみると、その数値は、平均して、右<1>の地点は本件踏切手前約一六〇・三メートルとなり、右<2>の地点は、本件踏切手前約一三六・二メートルとなつたことが認められる。

右の数字は右の実験者の選択方法、実験方法(例えばトタンで作つた模型トラツクを使用し、塗料が新しいこと)などに問題があつて右各平均値そのものが必ずしも通常の運転士が本件事故と同条件において示す数値を確実に表現しているとは言い難いものではあるが、現実に事故当時と同じ様な条件下で走行実験を行なつた点において信用性が高く、一応の目安としては、採用してよいと思われる。但し、一応の目安としてみるとしても、右の実験は次のような問題をはらんでいる。即ち、鶴田正一外一名作成の鑑定書は、「障害物という刺激に対して運転士が急制動処置をとる反応をするまでの反応時間については、簡単反応時間と複雑反応時間があり、簡単反応時間とはどこにどのような刺激が出現するか、反応の方法も一定である場合の反応時間であり、複雑反応時間とは、複数の刺激に対し、単一あるいは複数の方法で反応させる場合の選択反応時間と複数の刺激に対し一定の様式で反応する弁別反応時間があり、踏切上の障害物を発見した際に急制動をとる反応時間は、複雑反応時間の中の弁別反応時間である。」と指摘し、さらに右四名による実験の基本的問題点として、「実況見分をデザインした担当者は、反応時間を測定するにあたつての基本的な心理学的事実を考慮していない。それは、<1>踏切上の障害物(トラツク)を発見し、非常制動処置をとる反応は、日常の運転行動の中では“まれなる現象”であることの認識である。われわれの反応時間は、刺激の出現頻度によつて影響を受け、まれなる現象に対する反応時間は長くなる事実が多くの研究によつて実証されている。実況見分実験のデザインは踏切上に障害物が存在するというまれなる現象が六回連続するという特殊な状況下で反応時間を測定している。<2>刺激の出現が予想される状況下で測定が六回連続している。すなわち、実況見分実験では『何が』、『どこに』出現するかは、あらかじめ予知していたと考えられる。反応時間は予測、予期、先行経験などにより大きく影響されるものであり事故発生時の条件を可能な限り同一とする配慮がなければならない。」と指摘し、結論として、被告人杉本の「運転中の発見到達時間は、実況見分実験で得られた反応時間よりも長いもの(発見距離はより短かくなる)と考えられる。」としており当裁判所もこの鑑定結果をそのまま首肯するに足るものと考えるが、右鑑定においては、遺憾ながら、右実験結果についてどの程度の誤差があり実験結果の数値をどの程度修正すべきであるかの点については、触れられていない。したがつて、当裁判所としても、簡単反応としてとらえられた前記の「本件踏切手前約一六〇・三メートル」という平均数値を弁別反応におきかえた場合どの程度にまで短縮して考えるべきか判然としないのである。しかしながら、右鶴田外一名の鑑定意見を参酌するならば、時速約八〇キロメートルで進行中の一般の運転士ならば、本件踏切手前において障害物を発見することができる地点は、その手前約一六〇・三メートルを基準としてこれを越えることはなく、むしろ、これからある程度の距離を控除した数値であること自体は間違いない。

そうすると被告人杉本としては、前記制動距離「本件踏切手前二八九メートル」より手前の段階では本件踏切上の本件自動車を発見することができないことになり、仮りに本件自動車を発見し得る右「一六〇・三メートルを超えることがない地点」でこれを発見、急制動しても、本件踏切上でエンスト中の本件自動車との衝突そのものは避け得なかつたと認められるのである。

したがつて、被告人杉本にとつて、衝突そのものが回避不可能の場合は、過失責任を問い得ないとするならば、これ以上の議論を待たず、同被告人の犯罪は成立しないという結論が導かれるものであろう。

しかし、当裁判所は本件電車と本件自動車との「衝突」が避け得ないにしても本件電車の「転落」がなかつたならば、被害の態様が異なり、少くとも死者の発生まではなかつたと思料され、「転落」の回避可能性の存在を前提としたうえで、同被告人には、進路前方に対する注視義務及び進路に障害物を発見したとき直ちに非常制動の措置を講じ、乗客に与える死傷の程度を最少限度にとどめるべき業務上の注意義務が存するものと考える。

そこで、次に本件電車の「転落」を免がれるためには、本件踏切手前何メートルで右踏切上のトラツクを発見して非常制動措置を講じなければならないかについて検討する。

この点に関し、伊藤鑑定は「本件事故のさい橋上に残つた三両目車両の位置に先頭車が停止していれば、車両の転落が防止されたと考える場合には、本件事故列車の転落を防止し得るトラツクの確認地点は衝突地点の手前およそ一五六メートルの距離にあると認められる。しかし上記の場合には先頭車両転落の危険性が皆無であるとはいいがたい。したがつて、さらに先頭車両転落を絶対に防止し得るトラツク確認地点を求めると、そのさいには、本件事故のとき橋上に停止した四両目車両の位置に先頭車両が停止する場合を考えればよく、この場合のトラツク確認地点は衝突地点の手前約一八〇mの距離にあると認められる。」として、衝突地点の手前約一八〇メートル以上の地点でトラツクを確認し、急制動をかけなければ先頭車両が転落する危険があるものとしている。第二七回、第二九回各公判調書中証人伊藤富雄の各供述部分も同趣旨である。またこの点に関し新井清之助作成の鑑定書及びその補充書(以下これらを新井鑑定という)によれば「一両目の半分以上が橋渠にかかつたならば、転落の危険性はあるといえる。」とし、「一両目の半分が橋渠にかかるときの一両目の前端は衝突地点より(中略)五〇・二mとなる」「衝突地点より五〇・二m先で停止するための(中略)衝突地点と急制動をかけるべき地点との距離は二〇八mとなる。」として衝突地点の手前二〇八メートル以上の地点で急制動をかけなければ、先頭車両が転落する危険性のあることを指摘している。

ところで、伊藤鑑定は一両目から三両目までが脱線・顛覆し、四両目の車両は前部車輪四輪が脱線し、車体が僅かに左斜め前方に傾く程度、五両目車両は全く脱線がなかつたという本件の具体的状況を前提として本件事故のとき橋上に停止した四両目車両の位置に先頭車両がきたときに先頭車両が転落する危険性があるとするのに対し、新井鑑定は、一般的に電車が踏切上でトラツクと衝突した場合、先頭車両の半分以上が鉄橋にかかつたとき先頭車両が転落する危険性があるとするものであつて、右両者とも先頭車両が転落を免れるための衝突地点からトラツクを確認し、急制動をかけるべき地点までの距離の算出方法は全く同じ手法によつているものでその方法自体は妥当なものである。

ところで、本件の場合、先頭車両が鉄橋から転落する危険のある位置は先頭車両が本件事故のとき橋上に停止した四両目車両の位置とみるか、先頭車両の半分以上が橋上にかかつたときとみるかはなお考究すべき問題であるけれども、同被告人が時速約八〇キロメートルで本件五両編成の電車を運転中、本件踏切上でエンスト状態にある本件自動車と衝突しても、川原への転落を防止するには、右伊藤鑑定に従えば本件踏切手前約一八〇メートルで、右新井鑑定に従えば約二〇八メートルで、これを発見して非常制動すべきであるということになる。

そうであれば、右のいずれにしても、被告人杉本が本件踏切手前において本件踏切上の障害物を発見することができる地点は、先に説示したとおり、その手前約一六〇・三メートルを越えることがないのであるから、被告人杉本において、右一六〇・三メートルの距離の範囲で前方不注意があつたか否かを問うまでもなく、同被告人に刑事責任は存しないものといわなければならない。なぜならば、同被告人が本件踏切上でエンスト状態にある本件自動車を右発見可能地点の一応の基準である一六〇・三メートルを越えることがない地点で(仮りに丁度一六〇・三メートル手前であつても)発見して非常制動をしても、本件自動車との衝突脱線、川原への転落は回避不可能であつたことになり、過失犯における注意義務違反の前提たる結果回避の可能性がなく、同被告人の過失責任を問うことはできないものというほかはないからである。

なお、被告人杉本は、本件当日、大阪難波駅から本件電車を発車させる前に、自己の長男杉本充史(当時三歳)を運転室に乗車せしめていたことはすでに認定したとおりである。

昭和四四年押第1号符号2の「鉄道係員職制及び服務規程」第一九八条によれば、南海電鉄の運転士は職務上乗車する以外の者をみだりに運転台に立ち入らせてはならないと服務規定で定められており、同被告人は、右服務規定に違反したことは明白であるが、だからといつて直ちにこれが被告人の前方注視義務違反の過失につながるものではなく、また右長男を電車運転室に入れていたために、同被告人の前方注視が妨害されたと認めるに足る証拠も存しない(もつとも、本件の場合は、前方不注視があつたかなかつたかを問題にするまでもなく、注意義務の前提となる結果回避の可能性の点から同被告人の刑責が否定される事案なのである)。

結局、被告人杉本については、犯罪の証明がないことに帰するから刑事訴訟法三三六条により同被告人に対し、無罪の言渡をするものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 長谷喜仁 奥田保 井垣康弘)

別表(略)

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